プラトンは言葉とその意味と素性の食い違いに注目する。
「ラケス」では勇敢であるとはという話になるのだけど、ソクラテスの相手は「戦闘において前に進むことだ」という。ソクラテスは「でも、場合によって勇敢に引き戻ることもあろう」といって相手を同意させる。前に進むことと後ろに引き下がるという「正反対」の行為がともに「勇敢である」ということになるがそれは動作そのものには勇敢さ「そのもの」の起源がないということでもある。
「パイドン」でソクラテスは「物に即してあれこれ考えるのは複雑だ」というようなことの例で「あるものをひとつずつもってきてまとめることで2個という」一方「ある一つのものを分割して2つにするともいう」どちらも同じ「2」であるが行為としては「まとめる」と「わける」で正反対だというわけだ。
結果として「勇敢だ」「2つある」など同じ言われようだがどちらも出自が正反対であるというわけだ。これはある意味「全体論」といういわれるようことだ。ことの経緯も細部もひっくるめて説明できないと厳密ではないということである。でもそれはむずかしいし物事は多数多様でかつ絶えず変異変化しているので厳密であるとはとらえようのないということになりかねない。そこを捨象して考えても一定の真実に到達ししかも役に立つことが多いというのが科学的な認識の強みである。「全体論」は一見正論ではあっても現実的ではないし何よりも実用的ではない。同じようなことが小林道夫氏によればデカルトとホイヘンス、ニュートンなどの動力学上の見識の違いにあるという。デカルトは全体論にとらわれて前に進めないが、後者二人は手法の違いはあれど「最小原理」「質点の力学」などの考えに到達して物理学を発展させたのである。
ところで「パイドン」には続きがある。ソクラテスは物に即して考えるという第一の航法(帆で進む)をあきらめ第二の航法(櫂でこぐ)をとる。この第二の航法というのは一種の思考実験的なものにも思えるのだけども「イデア的」といわれている。普通に読むと「言葉の上だけで話を進める」ということに思える。魂には「生きている」ということが備わっているから、「死んでいる」ということとは共存できない。魂が肉体とともにある限りそこに「死」はない(共存しない)。あたりまえにきこえるがなにか他に示しているのかよくわからない。ライプニッツもこの部分はわかりにくいと書いている。私はもしかするとプラトンの対話編の表向きの「テーマ」は看板でしかないのかもしれないと思うのだ。「パイドン」の場合は「魂の不死」であるけれども、それはあくまで客寄せであってもしかするとプラトンは一種の概念操作というか論理学的な操作の実践をみせているだけなのかもしれない。プラトンは言葉の定義論争(プラトンは語源についての喜劇めいた小話がけっこう好きである)はしばし泥沼になるので、一度ありきたりな言葉の定義を受け入れてむしろそういうした言葉同士の組み合わせの上で矛盾など論理的な局面の現れをとらえて概念を「調整」していこうとしたのかもしれない。そういうものを彼は「ディアレクティケー」と呼び、いわば言葉同士の「対話」でもって全体に「正しい考え」に到達していこうとしたように思えるのだ。
プラトンにとって対話編の表向きのテーマは極論するば何でもよいのだけど、なるべく当時のアテナイ市民が興味ありそうなものをとりあげて彼の方法論をもって「料理」するところをデモンストレーションしているのかもしれない。
彼はそういう方法のうちでうまい具合にいくものを「イデア」とか「パラディグンメ」と呼ぼうとしていたのではなかろうか。
意外に彼は実践的なのである。彼のアカデメイアは今の大学や研究機関というよりも東洋でいうところの「道場」にちかいように数少ない資料(それもあまりあてにはならないのだが)から私が想像するからでもあるが。