ものおと

散歩と散文

アルチュセールと理論好き

アルチュセールの科学に対する特別の思い入れはある意味屈折していて面白い。ベルクソン譲りなところがあるのだけどアルチュセールはベルクソンとちがってあまり具体的な対象をおかずには話そうとしない。あくまで「弁証法的唯物論」とかお題目をいう。結局…

身の回りの事実

崇高な目的や特別な人間性はどうでもいい。そんなものさえも目先の利益のためのおかずである。慈善家は英雄ではなく大抵の場合複雑な商売をしている知的な人だ。少しだけ崇高な現実は家族に対する感情とそれよりはずっと劣るけれども長年の友人たちに対する…

哲学は今ただ生きることを作り出す。

定義できるものは歴史のないものだとニーチェは言ったそうだが生き方について歴史的に考えるのはよくない。生きることは定義できないとしても現状では遺伝子と細胞の複製増殖をその「本質的現象」と言える。でもそれは現状ではである。だから何かここでただ…

土台

お金はある社会の権威?によって与えられる信用によって交換価値をもつとされる。現在では政府である。では知性はどうだろうか?知性の交換価値というのもおかしな話ではあるけれども知性が知性として機能するのはおそらく言語によって与えられている「信用…

知性の影としてのお金かお金の影としての知性か

哲学はお金よりも知性の側にいるけれども、お金が存在する同じような地平に知性があるのも事実だ。知性一般なるものにお金の交換があるようにみえる。でも知性一般よりお金の方がずっと存在感があるではないか。でも使い方を知らないとお金もただ失うだけだ…

一般性、可能性

哲学は知性の一般的な条件、認識の普遍的条件などという話をする。特定の対象ではなくいつも「一般的」なわけだ。そして具体的でない分可能的なわけである。いろんな場合に当てはまるという話をしようというわけだ。これはそのままお金の話になる。よくある…

可能性の配布

知性の可能性とお金の可能性。「可能性」という言葉はお金と知にまとわりつく。知は力なり。知は可能性なり。知ったものに学んだものにはそうでないものよりも可能性がある。お金も同じ。哲学は知性の可能性を宣伝するのでお金の可能性はいわばライバルとな…

知性とお金

お金という物を成り立たせている人間の性質にはお金が様々なところに介入すると同時にそれについての知も発展するというところがある。お金と知性というのは双子の兄弟のようなところがあるのかもしれない。もしくはベルクソンが生命と物質についていったよ…

ただの戦後

1950年6月25日にただの戦後が終わってしまった。アルトマンのMASHでも見よう。それから10日後くらいに金閣寺が焼失したけどそれよりも三島由紀夫の「鏡子の家」の最後のように犬がもどってくることになった。それから広い客間はたちまち犬の匂いに充たされた…

ただの進行事態

ベルクソンはそれを持続と呼ぶ。でも結局太陽が何十億年も輝いているのと同じことだ。生きているのはいわば太陽の核融合反応の反転した散逸現象の一部である。自律した過程のようにみえるのは現状複製増殖という現象になっていてその部分を「生きている」と…

アルチュセールと科学

「科学者のための哲学講義」というのを読む。アルチュセールは哲学と科学の関係を掘り下げる。哲学は科学ではなく科学者に物をいう。例えばジャック・モノー。科学者には隠れた哲学があり科学とは別に「世界観」を表明する場合がある、そこに哲学は物を申す…

市場がやってきた

資本主義は様々なものを売り物にする。それが古来から問題になった。プラトンは知を金と交換することを非難した。さて現代においていかなる分野でもプロフェッショナルであるとはそのことでお金を稼ぎ生計を立てていることだとしよう(そのことだけで生計を…

普通であること

モンティパイソンのスケッチに町中の人が全員スーパーマンというのがあった。だからまあある意味誰も「スーパー」ではないのだ、そしてその中でヒーローなのは自転車が修理できる人だったという話。なぜか空を飛べるスーパーマンたちは自転車を利用していて…

可能性ー快楽

意識を可能性といってもベルクソンやハイデッガーは同じことを何度も言っているのでここではもっと絞り込んで意識を可能性であり可能性は繁殖の効果でありそれは人間にとって主に快楽とくに性的快楽への可能性であるとする。快楽は衝動の対象化であり快楽を…

未知のもの

それは繁殖的なものだ。可能性、潜在性。期待すること、希望をもつこと。逆にいうと退屈するものだ。生殖性そのものがあるわけではない。おそらく未決定なものという以上のものではない。そこからいろいろ連鎖して意識の上では何か期待したい、わくわくした…

持続の理由

生き物は地球のエネルギー消費の一部であるとしても特徴的な再帰的な散逸現象である。それは火の燃焼とは異なる。何が異なるかというと燃焼は基本中心があってそこから近接した可燃部分が燃焼するものだが生き物の複製増殖は遠隔的な決定をもったパターン化…

理論はまず虚構である。

宗教的な祈祷や詩は理論ではない。パルメニデスの断片は理論じゃないのだ。プラトンの対話編も理論じゃないがそのミュトスは理論の原型ともいえる。アリストテレスになるともう理論といっていいだろう。理論はお話から始まる。でもお話の仕方が問題だ。プラ…

理論ってなんだろう。

アルチュセールは哲学は理論的なものを同時代の科学から導入するものだという。もしくは科学について「理論」という面で介入するという。理論とはなんだろう。ワインバーグの科学史によると科学(理論)は現象を説明するものでありその説明が実証によって正…

哲学の専門性?

科学はプロバスケットボールの世界と同じである。アマチュアやセミプロはいるけれども素人は基本排除される世界だ。コートでやりとりをしたことがない人間に出る幕はない。ただバスケットボールは観戦の楽しみと興奮がある。それにあたるものが科学にもある…

すべては流れている

うまい言い方がみつからない。しかし結局のところ言葉と言うのはその都度のものでしかない。そもそも発話している現在現住所以上に広がっていることはかなりまれなことである。だから現在SNSなどで容易に世界にむけて広がっているようにみえてもそもそも注意…

哲学は虚構である。

哲学と小説の違いは簡単にいえば哲学は登場人物ではなくいわば登場概念のある著作を書くことである。ニーチェがわかりやすい。ニーチェはツァラトゥストラでこの中間(中途半端)をしているので「超人」「永劫回帰」「力への意志」という「概念」が科学(自…

科学と哲学 不毛な対話か?

哲学は想像に関わるものとして科学について話すことができる。一方科学は仮説形成において想像を専門的に働かせるとしてもそこから哲学とお話しする気はない。有益ではないからだ。科学と哲学はジャズとジャズ評論のような関係だろうか。楽器が一切弾けない…

スポットライトを浴びる舞台

人は称賛されることを好むし可能性があれば望むものだ。これは実に単純で素朴な欲求なので無自覚に日常顔を出す。動物は自分の行動に対する障害物をできるだけ取り除きたいという衝動があるので称賛を浴びて承認されることでめんどうな手続きをしなくても自…

言葉と物事の経緯

プラトンは言葉とその意味と素性の食い違いに注目する。「ラケス」では勇敢であるとはという話になるのだけど、ソクラテスの相手は「戦闘において前に進むことだ」という。ソクラテスは「でも、場合によって勇敢に引き戻ることもあろう」といって相手を同意…

理解することへの期待としての快楽

手に入れたわけではないが手に入れられるかもという期待自体が快楽であるのは昨今広く知られるようになったことだ。人は期待や希望に快楽をもつ。同時に不安や絶望で死んだりするのだ。哲学者は理解することへの期待で話をするが、科学者は実際に確実に理解…

1945年

自分の興味のある年の出来事をみる。1945年はもう盛りだくさんなんてものではない年ではある。あらためていうまでもないことだらけだけど年表見てみると面白いことにも気づく。この年の前半は矢継ぎ早にいろんな国が日本に宣戦布告している。もちろん日本で…

己の蒙昧を見出すこと

これまであまり実質的な理由が不明なまま価値や意味が大いにあると敬われていたものが「よく考えるとたいしたものではない」という権威失墜することで人々の意識が変わることはよくある。様々な情報が流通し人々の関心の変化が早いということもあるかもしれ…

魂と肉体という錯覚

説明しなければならないのは自意識の自立性であり一種の「統一感」という錯覚であろう。私の意識は実際のところ眠りとともに常に消滅しているともいえる。全身麻酔を経験したことのあるものなら全くごっそり「時間」がトルツメされた感覚を知っているだろう…

魂と身体の分離のおかしさ

現存在は魂であろうか。魂は肉体に入って人になる。ピュタゴラスが輪廻転生を述べて自分は前は誰某だったとか、その犬の「魂」は前世は私の友人だったから打つなとかいうことから彼が魂は自意識ともいえると考えていたのがわかる。さてこのばあいの魂はいろ…

武器について

武器について 日本は敗戦国だが、敗戦から20年たって生まれた我々の世代でも戦艦や戦闘機好きは結構いた。小学生の時の話だが。「丸」なんていう雑誌を買っている奴までいた。私はドイツの軍用車の簡単なプラモを作ったくらいで戦艦や戦闘機には興味がなかっ…