ものおと

散歩と散文

公共

公共

公共の衰退。
剥き出しの個と観念的な統一と実際にはお金の出どころとしての「国家」

公共は個人に人生探究の土台を与える理念的なものだ。
血縁者の寄り合いや宗教団体、学問、芸術、芸能上のつながりまで、様々なものが考えられる。公共は明確な実在、例えば団体名称、構成員、団体施設などをもつ場合とあくまで人の自覚をもあった集まりだけのものなどそのあり方にも幅がある。単なる集団でもしばしばそこには規約がある。
現在日本においては企業と自治体業務以外の公共の存在感が薄くなりつつある。それは表向き経済的理由によることが多い。
終身雇用性が弱まり、正規社員が少なくなり、会社そのものの存続も怪しくなると、残るは個人しかなくなる。あとは観念的ともいえる「国家」であり、実際は社会保障を行うものとしての自治体だ。

公共性について小熊英二からの引用
「日本では,国家 と中間集団は直列に接合されており,個人はその両者に束縛されているという図式が生まれる.すなわち,「 個人」が「中間集団および国家」と対立項をなすわけである.逆 にいえば,ここでは「個人」が共同性と公共性を求めてゆくことは,ただちに「国家」 ないしその下部組織たる 「中間集団」に吸収されることを意味し,それを逃れるには 「個人」の位置に とどまる しかない,と 意識されやすい. 」
アメリカ系の思想 についても,類 似の土着化 を見 ることができる.コミュニタリアニズムを 「近代的自我への根本的な反省」 として日本に紹介した政治思想研 究者が,「公共心,連帯心の欠如」の例として挙げたのが,「運動部の先輩」の命 令に後輩が口答えをしたというものだったという逸話は,もはや一編の悲喜劇といえる(藤原 1993: 198, 200). いわゆる規制緩和論 についても,アメリカと日本では政府の規制から解放される中間集団としての企業のイメージ(あえて実態とはいわない)が相当に異なっており,日本の文脈に安易にこうした思想 を輸入すれば,かえってリストラをはじめとした,個人 にたいする 「中間集団の専制」14)を 正当化す る結果になりかねない.」

これは組織とともに組織に関わる人間も形成されていくような過程を見出すことが求められるけどなかなかそんなことを人為的に実現できるのかわからない。そもそもこうした組織と個人のあり方は我々には合わないのかもしれないという指摘もあるだろう。しかし、現状をみると戦後繁栄に覆い隠されていた公共の衰退による個の危うさという問題は決して無視できる程度のものには収まってはいないと思う、
適切な組織をどうやって生み出すのか、それはどのような人によって為され持続していくのか?机上で考えるだけではわからないことが多過ぎることは確かである。