ものおと

散歩と散文

科学と哲学 不毛な対話か?

哲学は想像に関わるものとして科学について話すことができる。
一方科学は仮説形成において想像を専門的に働かせるとしてもそこから哲学とお話しする気はない。有益ではないからだ。科学と哲学はジャズとジャズ評論のような関係だろうか。楽器が一切弾けないジャズ評論家はいるだろうけれども中学校の数学もままらないで現代物理学を語るのはプロの仕事ではないだろう。おそらく一番わかりやすいのは科学そのものよりも科学によって可能になった技術開発が日常生活でいかに機能しているかの意義について話すことだろう。しかしこれを科学哲学という人はあまりいない。科学や技術は映画を始め様々な芸術芸能やインターネットを考えれば虚構の発展に間接的に大いに貢献している。哲学が想像の読解であるならばまさにこのような局面で有益に科学や技術を解釈することができる。ところが哲学は形而上学的な己の虚構に夢中になるあまり当然の資格があるかのごとく科学や技術の領域で専門家と対話しようとする。たとえ趣味の運動でテニスをするにしてもプロテニスプレイヤーとコートに入ろうとする人はいないだろうがなぜか哲学者が学芸の専門的な領域に対する態度は身の程知らずなことが多い。
哲学が科学と異なるのは想像性によってたつことである。それは基本虚構の領域である。もしそのような虚構からはじまっても現実性や真正さが証明され共有されていけば事実として学の対象になるだろう。科学と哲学の歴史は(例えばアリストテレスの自然学の内容に対する考察から物理学の進展など)そのような経緯を示している。虚構には力があるのは小説、映画、漫画、演劇がいかなるものであるかを考えればいうまでもないことであるし、宗教から陰謀論まで想像力の影響は科学よりもはるかに広範囲で深く日常生活に関わっている。むしろあまりに通常なことなのであえて意識するまでもないことである。
哲学が専門や専門家についてのものではないとするならまさに哲学はこの虚構と想像についての思索であることが有益であると思うのだ。