ものおと

散歩と散文

中心にいくな

年取ってきた。そういう時は力と量がうずまくような地帯は避けるのが一番。またそういう地帯ができやすい分野からははずれるのが一番。もちろん生存と繁殖という本質の「若さ」の中にそういう地帯はできやすいし若さから「既得権益」となった老害の中にも老舗地帯があるもんだ。いくな。でも思わぬことからその地帯に足を踏み入れることもあるのだ。臭覚は大事。歩んでいるとき「なんか臭う」って思うことが身の安全を守るのだよ。君足踏み入れたまうことなかれ。

自己とそうでないもの

自己というのは免疫的に言えば己の意志でどうなるものでもない。アレルギー体質はしょうがない。でも多重人格なる症状において人格が変わるとアレルギー症状がでる人格と出ない人格があるという例を読んだことがある。これは脳のモジュール化かどうかわからないけど機能する部位の違いってのがあるのかもしれない。自由意志という言い方よりも「その自己であるか否か」のほうがより現実的なのかもしれない。その自己あの自己この自己と多重人格じゃないけど免疫反応の違いでいくつも自己があったりするのだろうか。普通はないだろう。普通は自己は一つであろうとするだろう。自己というのはとにかく一番最短でその身体がエネルギー散逸変換を進行させる体制のことだと考えてみよう。健康な身体なら最短効率よく成長して繁殖して死ぬのでありそこはひとつの自己で貫けるわけだ。健全さとはそんな一本気な人生なのさ。でもそんないい感じの身体はめったにない。みーんなどこかしらに非調和があるしそもそも進化しているわけでいろいろ変質している。エラーが根本にある。燃え広がっているイメージでいえばそもそも変質しまくるのも本質なのである。だから自己というかもと自由の問題というのは変質しつつせっせと話を先にすすめられるのかということになるのだ。もちろん意識が進めているのではない。意識は話がスムーズに進んでいるのかいないなら対処しなきゃという検査員みたいなものである。そしてその意識は進行がある程度以上に健全でないときちんと成り立たないわけである。だから意識の手前にもいろいろ「調整役」がいるにちがいない。ここがバランス悪いと意識の問題がおこる。そしてそのバランスの悪さを意識は自覚できず表現する(つまりへんな意識になる)しもちろん意識がそのバランスの悪さを治すのはまずむりなわけである。

ジェンダー退屈恋愛自殺

意識っていうのは運動神経と免疫体系との融合である脳の参照調査だとしても応えないといけないことがいろいろあるんだね。性同一障害も認知症も自殺発作もどう考えようか。生きることは進行していることだ。進行を妨げるものが多くなれば絶滅してしまうだろう。障害は流れの勢いと流量があれば超えられるだろう。疲れて眠って意識がないのは部分的な絶滅だけれども朝また覚醒するわけでこの場合は「再生」する部分なわけだ。個体は老化と死で絶滅するけれども繁殖することで再生する。繁殖がなくなればその形態の絶滅だろうけど進化によって再生しているともいえる。この山火事はしぶとい感じがするけれどもそもそももっと根底というか巨大にあるエネルギーの流れからみれば絶え間ない変質をしながら続いている局所的再帰現象なのだろう。意識から話がそれた。個体は渦が周りの障害にあたってしぶきを上げているようなものだ。個体は生き延びようとするものでもあり進行が滞っていることでもある。いくつかの個体はそこで流れを終える。お疲れ様。意識があるかぎり何かが続こうとしているそして意識は「続けられるか」たえず検証している。意識にはそういう未来志向があるからいつもちょっと「不安」である。未確定に対する免疫的反応である(注意せよ!まだわからないから)。意識もまた過剰という危険性をともなっている。個体の身体的持続における変質の過剰反応が一番の問題だ。もちろん空腹や性衝動という変質が一番重要criticalだろう。文明はどこかこの内的変質に過剰反応してきた蓄積のようにも思うけれどももうかれこれ何千年も積み重なったことなので今更紐解くのは無理だろうから人は自己として個別に対応していくしかないわけだ。まあ哲学というのはそんな慎ましい対応だと思うわけ。

生きものはどうしてまだ続いているのか

山火事比喩から言えば燃えるものがまだあるから。ではその燃えるものってなんだ?光合成でできる栄養?それがある限り地上は生き物がいるのか?一方渦比喩からいえば根底にある地球のエネルギー散逸変換がまだまだ続く限り変換(流れ)の上に生じている渦のようなものとしての生きている物体は持続する。でもその流れっていうのは具体的になんだって話だね。生き物全体っていうのは思った以上にスケールの巨大な話なのかもしれないのでもう少し話を縮小して「人間っていわれているものはいつまでいるの?」でもいい。いやそれも実は進化論的にはとても人間の思考とデータと合わせてあれこれやっても敵わないスケールかもしれないから「こんなふうにグローバルな産業社会はいつまで続くの?」のほうがいいかもしれない。つまり国際関係っていつまでもあるのかしらって話だね。もちろんその中には敵対的な関係もあるってことだけど。そもそも200年前は世界はどれだけ「グローバルな関係」があったのかしらね?