ものおと

散歩と散文

すべては流れている

うまい言い方がみつからない。しかし結局のところ言葉と言うのはその都度のものでしかない。そもそも発話している現在現住所以上に広がっていることはかなりまれなことである。だから現在SNSなどで容易に世界にむけて広がっているようにみえてもそもそも注意している人間が必要というのであればその実ネットなどなかった状況と変わらないのかもしれない。
さてそういう話ではなくてすべてのものは今ここであそこで変化し進行している。同じものがあるようにみえるのは変化の速さ、テンポの違いがそうさせる以上に認識自体が変化と進行の上に成り立っているからだ。一緒に動いているものは相対的に止まって見えるというたとえになる。
しかし、いつまでも並行しているわけではないので変化は感じられ、認識される。いずれ私は死んでしまうので圧倒的にこの今の普遍性、一般性、不変であることは局所的なものだ。
でも、普遍というのはいろいろ応用が効くいくつもの場合に役立つと言う意味だし、不変で一般的なのは基本どこでもいつでも使えるということの指標である。
こうしたものは結局プラグマティックな捉え方がわかりやすい。しかし一方で
我々の特異さ、自分でしかないことはいつも近くにある複雑さでありかつ時空的にも局所的であり大きな尺度でみれるなら無に等しいともいえる。そうなると今度は別な意味で普遍な「変化すること、進行している」こと自体のほうが圧倒的に実在しているともいえる。「個別性」なんて無に等しいというわけだ。
ただこれはジレンマではない。視点をかえるとこうなると言う話でしかない。
ハイデッガーニーチェに見出した形而上学の完成である生成に存在の刻印をおすことなどと大げさにいわなくても変化し進行していることの方があたりまえなのであって、私が捻り出そうとする「不変な一般性」なぞこの特異で大きな尺度からは無に等しい「私」がその一瞬の人生で利用できるようなものでしかないのだ。
しかし私は私でしかなくこの人生しかなくそんな私を貶めるようなことは自然に無視しているのである。
今やネットから大量に知られる変化してやまない広大な宇宙と世界の有様には食傷気味だ。宇宙とか世界という枠組みも飽きた。むしろ「そこら辺」の方がいい。
宇宙論よりも実際の地球探索の方がはるかに有意義だし、想像も豊になる。
哲学は本当のところどちらかというと簡単に食べて腹がいっぱいになるジャンクフードに近いのだ。安直に思索に耽溺したい人の道具である。

ヒューマニズムについて:ハイデッガー

戦後すぐ苦境に陥ったハイデッガーを救ったのはハイデッガーをフライブルグで裁いていた人たちと同じフランス人であったという話。しかもどうもこの戦後すぐではかのサルトルやこの本のもとになった書簡の主であるボーフレもハイデッガーのナチ関与は知らなかったようである。でもフライブルグで裁判をして厳しい判決をしたフランス軍関係からそういう情報は入ってなかったのか。まだ渡邊二郎の解説を読んでないのでそこら辺の歴史経緯もあるかもしれない。
さて内容はもう説教調でありしかも秘教めいた語り口である。どこまでも「存在」という主題による変奏曲といえる。ある意味中身があるのかどうかも微妙である。あまりに具体例に乏しい。「存在と時間」にはあったそれなりに具体的な叙述は影を潜めて御託宣の羅列である。これに感銘を受けたというボーフレはどんな人なのだろう。
大学からの追放を宣告されたハイデッガーは精神的に危機にあったようである。
だからちょっと危ない感じの文章でもあるけど、それなりに自己弁護的な側面もあり相手の立場への気配りもあり考えられた文章である。
ふるまいというところでハイデッガーは御託宣を言いながら自分をナチス関与で裁くのは不当であるという筋道を作りたいと思っている節がある。
この時代のドイツ人は日本人とはまた別な意味で目の前の現実(降伏と転回)を受け入れるか否かで引き裂かれていたのであろうか。
ハイデッガーはどうしても「ヒューマニズム」という単語を受け入れられないのである。

親の歳の違い

私は1964生まれだけれども、父親は1921、母親は1926年生まれである。
同じ1964年生まれでも1946年生まれの両親が18歳で産むという場合もあるだろう。
そうなるとだいぶ家庭の精神環境は違うように思うのだ。
私の息子は2004年生まれだから、子供の友達の親はほとんど私よりも10歳は若い。もちろんたまに自分と同じくらいの親に会うことはあるがほんと一握りである。高齢出産は多くなっているようだが。そもそも少子化である。ただ若い親でもサザンが好きというように共有できそうなものはそれなりにある。戦後の文化はある意味世代を超えているところがあるからだ。もちろん流行は世代で異なるけれどもある種の連続性がある。一方1945年前後というのはそういう意味では不連続なものがないとはいえない。連続しているものがあるというのも事実であろうが。そもそもあの終戦を跨いだという経験はかなり強いものではなかろうか。
戦前生まれの両親をもった子供たちはいつかはなくなるだろう。
これはそれなりに大きな話かもしれない。まあどこまで大きな話なのかはなかなか難しいけれども。私の親はやはり戦前の精神環境で成人になった。そのような親のもとで戦後育つというのはもちろん一様ではないけれども影響はある。両親が戦後の変化をあまり受け入れられていない場合は特にそうではなかろうか。

哲学は虚構である。

哲学と小説の違いは簡単にいえば哲学は登場人物ではなくいわば登場概念のある著作を書くことである。
ニーチェがわかりやすい。ニーチェツァラトゥストラでこの中間(中途半端)をしているので「超人」「永劫回帰」「力への意志」という「概念」が科学(自然・人文)のそれとはちがって何よりもその描写(経緯、素性、挿話)が重要であることがわかる。
哲学の問題は自分たちがすでに文学の領域こそ居場所であることを自覚できずにいる場合である。といってもそのような人たちはベルクソンフッサールの世代で終わっているし戦後はますますのその自覚を強めながらどうやってアカデミアの中で存在感を維持するのかの政治になったのがちょっとかっこ悪かったのであった。
日本においては今はそれすらもない。平和である。

科学と哲学 不毛な対話か?

哲学は想像に関わるものとして科学について話すことができる。
一方科学は仮説形成において想像を専門的に働かせるとしてもそこから哲学とお話しする気はない。有益ではないからだ。科学と哲学はジャズとジャズ評論のような関係だろうか。楽器が一切弾けないジャズ評論家はいるだろうけれども中学校の数学もままらないで現代物理学を語るのはプロの仕事ではないだろう。おそらく一番わかりやすいのは科学そのものよりも科学によって可能になった技術開発が日常生活でいかに機能しているかの意義について話すことだろう。しかしこれを科学哲学という人はあまりいない。科学や技術は映画を始め様々な芸術芸能やインターネットを考えれば虚構の発展に間接的に大いに貢献している。哲学が想像の読解であるならばまさにこのような局面で有益に科学や技術を解釈することができる。ところが哲学は形而上学的な己の虚構に夢中になるあまり当然の資格があるかのごとく科学や技術の領域で専門家と対話しようとする。たとえ趣味の運動でテニスをするにしてもプロテニスプレイヤーとコートに入ろうとする人はいないだろうがなぜか哲学者が学芸の専門的な領域に対する態度は身の程知らずなことが多い。
哲学が科学と異なるのは想像性によってたつことである。それは基本虚構の領域である。もしそのような虚構からはじまっても現実性や真正さが証明され共有されていけば事実として学の対象になるだろう。科学と哲学の歴史は(例えばアリストテレスの自然学の内容に対する考察から物理学の進展など)そのような経緯を示している。虚構には力があるのは小説、映画、漫画、演劇がいかなるものであるかを考えればいうまでもないことであるし、宗教から陰謀論まで想像力の影響は科学よりもはるかに広範囲で深く日常生活に関わっている。むしろあまりに通常なことなのであえて意識するまでもないことである。
哲学が専門や専門家についてのものではないとするならまさに哲学はこの虚構と想像についての思索であることが有益であると思うのだ。

心の香り

あんまり良い表現ではない。気分と言えば良いのかもしれないけどちょっとちがう。心というか頭の中なのだけれどもほんわかしたいくつかの状態があって快感とまではいえないけどいい香りがするようなものなのだ。自分はそういう瞬間か時々ありそんな瞬間が好きだ。そのために生きているのだと言ってもいいくらいに歳をとったこともある。

スポットライトを浴びる舞台

人は称賛されることを好むし可能性があれば望むものだ。これは実に単純で素朴な欲求なので無自覚に日常顔を出す。動物は自分の行動に対する障害物をできるだけ取り除きたいという衝動があるので称賛を浴びて承認されることでめんどうな手続きをしなくても自由に行動できるようになると考える傾向が人間には強い。実際はそれほどでもないとしても認められることは怪しまれないことでありその分楽になる。またそれ以上になれば異性には注目され同性に対して優位にたてるきっかけになるわけでいろいろ褒められたり注目されることは功利的によろしいのである。だから通常の考えの中に注目される舞台が中央にあってスポットライトを浴びて拍手喝采的なイメージがたえず潜むものだ。うまくいかない時はこのモデルは「幼稚で馬鹿馬鹿しく」思えるかもしれないけれども現実はみなこのスポットライトに弱いしそういうお膳立てをしたがる連中がわんさといるものだ。こういう傾向が社会から消えることはないであろうけれどもこれもまた一種の麻薬のような効果があるということは注意して損はない。私の考えではこの傾向は結局繁殖上の技術的な傾向であり個体の繁殖傾向が弱まればあまり意味がなくなるものだ。そして生存行動のもつ「他人のまんじゅうはデカく見える」傾向からするとこの繁殖行動に役立つ傾向は嫉妬の対象になる。現代中国の情勢をみているとこの巨大な生存系資本主義国がいたるところで「出る杭ぶっ叩き」に励んでいるのがみえて気疲れする。すでにそうなのかもしれないが中国はものすごい少子化を加速するのではないかと妄想してしまう。