ものおと

散歩と散文

資本主義における持続の問題

資本主義は人々を分断するが結合もさせる。資本主義上ではさまざまな「結社」が現れる。会社がまさにそうだ。資本主義国家では政府もまたひとつの結社とされる。政府にたいして政治をするではなく経営するというような発想が近頃でてくるようになったけれどもまさに政府は特殊な企業だというわけだろう。さてわたしは資本主義におけるつながりの問題は今や一人における時間的なつながりの問題になっていると思う。すでに「労働時間」が19世紀半ばの西欧で労働組合の問題になっていた。労働時間に対して「自分の自由にできる時間」ということだ。さてわたしはもうすこし一人における知能および知性(免疫認知)の持続という面について考えたいと思う。巷では「キャリア」とかいわれるものにも関わっているだろう。もっと大きく言えば「人生」という言い方がある。もうずっと前から資本主義はそういう個体の持続に介入してきたわけだ。戦後日本の新卒一括採用年功序列終身雇用は実際は一部の企業のものだったとしてもひとつの長い持続についての見通しでありそれなりに高度成長時代に確立した人生観であった(主に男性)しかしこれは資本主義的なものといっていいかどうかは疑わしい。むしろ戦後の平等志向に戦前まで色濃くあった身分社会的心理が民間企業に雇用されるという当時拡大浸透した生き方の中で折り合いをつけていった有様なのかもしれない。その50年後くらいにトヨタの社長が「もはや終身雇用はあたりまえではない」といった発言を公にするようになったわけでむしろ資本主義の浸透は一人の人間の長い持続を切り刻むようになっていくのではないのだろうか?身分に変わる終身雇用が一般的でなくなるとしたら一つの個体の自分の「持続」は労働の中で「技能」になっていくのではないかと思われるのだけれどもおそらく「メンバーシップ」制といわれる日本の職場は業務を個人が内面化するのをむしろ忌避するところがあり他の先進国では普通といわれているジョブ型雇用が日本ではいろいろ誤解されるのはよくわかる。個体における持続と労働の問題というのはいろいろな面をもっていると思うのだけれどもそれは結局自分というものにつながっていくわけで公私という話にもつながっていく。現代日本では大方被雇用者なわけで「社畜」と「モラトリアム」「ニート」「ひきこもり」と一人における持続という視点でみればなにか共通の問題を見出せそうな単語がいろいろあるようにも思える。

被雇用者であること

雇用者(企業)側は働き手のために雇用するけれども実質その「働き」だけ欲しいわけだ。その求められている働きによって雇用者は被雇用者の扱いが違うのは自明だろう。誰もができるであろう単純作業なら必要な生産量を制限時間内にもたらしてくれればよく誰でもいいわけである。こうした作業は機械で代替できる可能性が高い。しかし機械にはメンテナンスは更新が必要なわけでそのための人材を必要とするだろう。今度は誰でもいいわけではなく機械の専門知識がある被雇用者が求められ一定の期間の勤務が求められるであろう。おそらく複合的な機械生産であってもどこかで人間の管理が必要となるので人間をなるべく排した大規模な機械生産でも少人数の被雇用者は必要となるのは予想される。企業は生産もしくは成果を求めている。被雇用者は企業側が求めている質と量のをもたらしその結果企業が求めている利益が現実になればよい。そして企業は損と事故を避けたい。人間は企業の求めている以外の「働き」とそれがもたらす損と事故の可能性を持っている不確定な存在である。被雇用者であるとはそのような視点から企業から扱われることだ。被雇用者としての「働き」は雇用されない限り「作業」にはならない。また作業が企業が求めているものを満たさなければ問題になるであろう。被雇用者が求めているのはまず自分の提供する作業の成果に対して払われる賃金である。そして被雇用者の多くはその賃金によって生活を持続している。企業は被雇用者として人のある一面の存在理由を持っている。そしてその理由に対して賃金を支払っている(実際は福利厚生も提供している)。人間を雇用している限り企業には人間の維持の義務がつきまとうであろう。生活給という名称自体そういうことを示していた。被雇用者は政府だけではなく企業に対して(もしくは政府を通して企業に対して)生存権を主張する。企業的には分析ができるかどうかはわからないが自分たちが被雇用者に対して「維持費」を渡せるのはあくまで提供される「作業」分であるということだろう。理屈ではそうなるだろうけどこれは「ベニスの商人」の中の肉と血の話みたいになる可能性がある。AIやロボットというものがどこまで現実的に一般的なのか私には現時点ではわからないのだけれどもそれらはこうした被雇用者における企業が求める作業の具体的な有様の話になってくるだろう。そしてメンバーシップ的な日本の雇用状況は必然的に分析的なものになりおそらく心理的には現場からの強い拒絶に会うのではなかろうか?

分断はどこにいく。

集合問題は面倒。でもその解決に僭主が出てくるとさらに厄介だからいやだ。でも一度離散化したものはもう連続化などできない。現代的ジレンマだ。もちろん「別の」共同体を求めている人はいるだろう。結社、組織、カルト。現代はいたるところでこの手のアソシエーションが出てきている。個人は関係性が必要であるし関係性の中にいるし関係性に作用しようとしている。個別的な活動の推しカツというのはそれを通しての想像の協同体という面がある。共犯者という共同もある。でも大きな方向は分断だ。分断は川上から川下に流れるようなもので人間集団がもつ必然的傾向なのだと思う。その流れの局所的な渦巻がアソシエーションだ。そしておそらくそれは基本「偶然」のようにみえる自己組織化だ。私は実のところそこに現実以上の希望はないと思う。ある商品が売れたら同じような商品がしばらく売れたとしてもいずれ流行は廃れるように集合は分断の過程であると思う。行き着くところは各々分岐上の消失であり絶滅である。

集合問題 プラトン「国家」における民主制から僭主制という話

椅子があるライブで禁止されているのに一部が立つと結局みんな立つことになるという時これは単純に競争ともいえる。「今ここで(周りが立ち上がっているのに)立つことが禁止されているから立たないのは負けだ(損だ)」という心理である。もちろん単純に座っていると見えないからだ。この見えない(規則をちゃんと守っている)ことよりも見える(規則を破って周りと同じように立つ)ことの方が先決問題だという心情はライブ好きなら誰もが納得できるけれどもこれは目の前の利益にとびついて法を破っているのと同じでもある(大袈裟に聞こえるけど)。いろいろな具体例がありそうだけど「群衆心理」とか言われているが結局これは自由に判断するという個人の集団の問題である。プラトンの「国家」の有名な国制の「劣化」についてのくだりで民主制は各々が己の主張をし始めて収拾がつかなくなると僭主制に移行しがちだというところがある。前半は集合問題である。みんなが自分の利益を主張しているので収拾がつかなくなるのはわかっているけど自分だけ主張しないのは損なので主張して結局収拾がつかない。さてみんな「収拾がつかないのはみんなが手前勝手に自分が一番正しいと言っているからでありいろいろみんな意見が違うからだ」とわかっている。これは経験的なものだ。最初からどうころんでも人が勝手に自己主張したところでみんな同じ意見しかいわないならこういう問題はおこらない。アンディ・ウォーホルがブレヒトについてどういう根拠でいったのかわからないけど「彼はみんなが全く同じ意見だったらいいのにと思っていたんだよ」とどこかでいっていた。キャンベルスープのコピーみたいな話かね。でも現実はちがう。というわけでみんなこの収集つかずねじれ国会みたいな状態が不愉快である。そのうちこの連中の中から一際声がでかいやつが話を強引にまとめようとして目立ってくる。問題は結局収拾つかないことに飽き飽きしていると同時にその原因が自分たちであることがよくわかっている全員なわけで僭主はそこをついて抜きん出てくるということだろう。でもって意見をまとめるというよりも大部分を圧しつぶして外見上一律にする手腕を発揮する。まあ結局のところ暴力に訴えるのだ。内容ではなくでかい声で他のやつらを叩き潰すというわけである。問題はどこにこういう収拾への平衡の破れが生じるかということだろう。トランプの当選も同じように民主党の体たらくという印象が拡大してそれならトランプに入れてみるかという傾きがおこったことによるのだろうけれどもそれはどこに起こったのだろうかという話だろう。ただここでは集合(収拾のつかないという平衡状態に陥っている離散化個人の集まり)が前提とされておりある程度の数量がないとおこらない。そもそもひとが群れないような社会はこういうことが起こらない。日本における「群れない」傾向というのは米国との対比で面白いと思うのである。

一度離散した「個人」が再び集合して「つながる」意味

初期マルクスがいう「疎外」は分業と私有財産の考えとともに個人が自らの生産行為から乖離してしまうということでありそれと同時に土地や全体からも分離していくということなわけでその様子が起こす問題は再集合再連結(言葉的には宗教ですな)ということによって解決への具体的な一歩がみいだされるであろうものだ。物体はたとえば陶器はおとして割れてしまえばもとにもどらない。粉々に砕けば最初にどんな形かわからなくなってしまう。人間はそうではないというわけだ。人間は本当の意味では離散的ではないのだ。いろいろ物理的につながっており個体の動きは常に相互作用しているものなのだ。だから自分は他から分離しているという意識はもちろん明晰なものであるのだが厳密にいえば錯覚といえる。それはそういうつながりや相互作用の積極的な面(それはある意味社会に生きていく上で当たり前のことなのだ)よりもそこからおこる否定的な面に認知が働くからだ。自分がうまく妨害されずに作業できるような環境について人は認知などしない。問題は「いつもの自分の」作業ができないような状況について強く認知(意識)が働く。工場の単純労働は最初は何のことはない。しかし同じ動作の繰り返しには身体の疲れや飽きがきてしまう。持続における身体側の変質が作業への認知をもたらす。そこで「休憩」という動作をおくことで作業への認知を抑制するという技術が導入される。友人は高校の時100円ライターの芯造りというバイトをしていたがただ穴に素材の粉を入れていくだけという単純作業に嫌気がさしてすぐにやめてしまった。その時代細い穴に自動的に芯素材の粉を入れるという「精密な作業」を機械化することが難しかったのかもしれないし可能でも機械化の初期投資するよりそこを人にやらせる方が総合的に低コストだったのかもしれない。彼はタバコを吸っていたので100円ライターの製造は彼の生活から「乖離」はしてなかっただろうけど作業の馬鹿馬鹿しさに彼は耐えられなかった。問題は何時間もこのばかみたいな作業を一人で(他にも作業者はいたのだろうけど)やり続けているということをマルクス的「疎外」というとしたらまさに本来はこの時間を疎外や乖離ではなく連結につまり人との関係性の構築のために使うべきなのではないのか?ということだろう。もちろん西部劇ででてくるような家の外で薪を斧で割って作る作業と芯製造のどっちが本来的かとかいうことではない。薪はその家の暖房になるといえるがライターの芯も大勢の人間に簡単に発火できる便利さをもたらしていると理屈をこねることもできるだろう。でもおそらく家族がいる中で家の裏で黙々と薪を割る作業と工場のある場所で黙々と小さな穴に粉を入れていく作業では「連続」性がことなるということになる、薪割りは彼の生活の明らかに連関した作業のひとつだけれども芯製造はただ時間を賃金獲得のために使っただけだというように。だから集合してつながる意味というのは空間的なのではなく一人の個人における連関した作業の時間的つながりを生むというべきだろうと思う。バラバラになった人の分業がもたらす疎外とは己の持続を離散化しようとするものだということで問題なのである。その点を見返さないと共同と工場(企業)はたいした違いはない。人が協力することで各々作業の時間的な連関ができるならそれは意味があるのだととりあえず単純に思う。