ものおと

散歩と散文

いろんなことが難しい

わたしが小学生低学年だったころ買ってやる遊びというのはそんな多くなかったと思う。男子はボール遊びとかどろけい(泥棒と警官という集団鬼ごっこみたいなやつ)とか毎日やっていた。買うのはゴム紐とか風船とかそんなもんだ。駄菓子屋でふがしとかちゅうちゅうとか買うのも定番か。今の世の中のものごとはSWITCHとかに限らず複雑でよくできているのかもしれないが難しい。小学生でスマホもつとかありえないレベルだろう。ときおりあの時の情景を思い浮かべようとするけど今あるものでは思い起こすことができない。

AMBIENTな地帯

音楽の96 %は「芸能」だと思うけど(極論)のこりの4%にはAMBIENTな市場というものがあると思っている。でこの市場は今やネットという場所で陰日向にすくすくと進化している。世界中でそれは進んでいる。民族音楽というように音楽芸能は古今東西諸階級に多様にあるけどそういう人間関係や権力と富とはあまり関係ないようなところで生態系があって細々とのんびり進行しているのだとみんなで空想しているのである。そもそもこういう音楽は個人の空想を主に環境として持続しているのである。

異物だから取りこむのだ

あんまり一般化できないのかもしれないけど普通にできちゃうことってこだわりないもんだ。好きでやれてしまうことっていつのまにかしているもんで努力の意識なかったりする。まあ麻薬中毒みたいものだけど。特に人に見せるとかじゃなくて癖とかでやっていることってある。ある時ふと人に見せる「えーなんでそんなことできんだよ」みたいに驚かれてちょっと得意になったりするけど。同じように全然気にならないで話せる相手ってのはいる。自分に似てるというか安心できるとかさえ意識なんてしないような人。まあ友人ってことだろうけどしばらく会ってなくても会うとまたいつものようになる。だからそのまま疎遠になって何十年たってもまた何かで会うともどるみたいな関係。自分にとってこだわりのあるものじゃないけどすんなりあるもの。つまり私の自己が受け入れるもの排除しないもの拒絶しないものたちだ。逆にいうとうまくできなくて努力してできるようになりたいと固執するようなものごともある。ボールがうまく投げられなくてなんか格好悪くてとにかく学校おわってから近所の壁で投げる練習して近くのおやじから「ここはそういうことすんとこじゃねー、うるせーからどっかほかんとこでやれや!」と怒鳴られながら「努力して」投げられるようになったりするようなことだ。そういうのが意外にそのまま仕事になったりすることもある。Rのお兄様は小児喘息で小さい時から発作が起こらないようにご両親が臨海学校とか行かせていて本人も人一倍体に気を使っていてずっとスポーツ部だし今でもものすごいアウトドア派で冬はスキー夏はカヌーみたいな感じ。アレルギーがほとんどないRはひどいインドア派で晴れていても家に厚着をしてじっとしている。「それが好きだ!」「それにこだわりがある」というものが「自己と異物」自己がうまくとりいれられないもの。自己が拒絶しがちなものだったりするのかもしれない。「なんでこんなやつに恋してんだ」というようなことがある。気になるのは慣れないからだ。免疫のできない相手を好きになる。それってなんだろう。ある食べ物が好物っていうのはそれが足りないからだったりすることもある。類は友を呼ぶけど敵は恋を招くのかね。

自己を拗らせた人々

肉体の免疫系と神経の免疫系があるのさ。自己を拗らせるって前者だとアレルギー体質で後者だとわたいのいう哲学者となるのさ。2つは密接につながっていると思うが検証が必要だろうね。さてまあ神経の免疫系というのはまだまだ比喩でしかないけど自己を拗らせた人々だとわたいが思う人をとりあげていこうと思うのです。